In Person : ある英語教師のエッセイ


女の子が二人縁側に座っていた

 昔、今の教室を始めた頃、親の知り合いが子どもを習わせたいと言う話がありました。その人の子どもともう一人、その子の友達が来ると聞いていました。当時、私は大学院生で、その子たちが初めて来るという日に大学院に行っていました。午後4時から来るという話だったので、3時半に帰宅しました。その当時は自宅が教室になっていました。正確には、元々教室だったのですが、後で空いている部屋が自宅になったと言う様な具合です。まあ、実家から引っ越して、教室の空いている部屋に住んだということです。

 それで、3時半に自転車で自宅に帰ってくると、縁側に女の子が二人座っていて、驚きました。4時からなのに、3時半にもう来ているなんて・・・。かなりあわてました。準備はどうするのでしょうね。

 確か1986年11月のはじめのことでしたね。昔は、11月頃に入学する生徒が時々いました。たぶん2学期まで様子を見ていたところ、2学期の中間試験の出来が悪く、心配になって入学するというパターンだったのではないかと思います。

 で、その二人なのですが、今まで教えた生徒の中では、なかなかおもしろかったです。厳密に言うと、その内の一人がおもしろかったです。後の一人は、普通の生徒という感じでした。おもしろかった方の生徒は、「さゆりちゃん」と言い、普通の感じの生徒は「ちぃちゃん」と言いました。学年は二人とも、当時、高1でした。

 さゆりちゃんは授業中いつも私の方をじっと見る子でした。お母さんに聞くと、「授業中はいつも先生を見るようにしなさい」と言っているということだったので、そのためでしょう。あるいは、ひょっとして私に関心があったからとか(笑)。まあ、とにかくさゆりちゃんはいつもこちらを見つめているので、私もさゆりちゃんを見ながら授業をしていました。生徒の顔を見ながら授業をすると、生徒がわからない場合、すぐ察知できるので、わかりやすい授業ができて、非常によいです。だから、さゆりちゃんのお母さんは大変よいアドバイスをしていたと思います。

 さゆりちゃんは、本をよく読む子で、国語が得意でしたが、英語が全然できなくて、学校は名古屋市立桜台高校という、そこそこのレベルの進学校に行っていたのに、中学レベルの英語がスムーズに音読できないと言う状況でした。英語の教師としては、教え甲斐のある生徒です。頭が悪くて英語が覚えられないのではなくて、英語の勉強の仕方が間違っていて英語ができないと予想されるからです。

 だから、まず、英語の勉強の仕方の話をしっかりしてあげました。実際問題としては、これがなかなか難しいのです。今まで学校で間違った英語教育を受けてきて、それが当然だと思っていたのに、それが間違いであると教えられるわけですから、よく物のわかる子どもでないと、受け入れられません。まあ、新しいことというのは、なかなか受け入れられないのが人間の性質と言えますね。しかし、さゆりちゃんは、私の話を聞いて、よく理解し、正しい英語の勉強の仕方を受け入れました。第一関門を簡単に突破できたという感じですね。一方、友達のちぃちゃんはだめでした。典型的な受験勉強型の生徒で、いわゆる受験英語を盲信していて、実用英語を受け入れようとしませんでした。だったら、やめればいいのですが、私の出身大学がいいので、これも続けたいという、まるで詰め合わせセット的な考えで、私の教室に通い続けました。

 セットと言えば、この二人、まるでセットのような生徒でした。大変仲が良く、いつも二人で並んで座っていて、ぴったり呼吸が合うという感じでした。ただ、人格や知性の面では、全然違っていたのが興味深いですが、たぶん、成長するに従い、違いが出てきたのでしょうね。さゆりちゃんは、かなり知的なところが芽生えてきていましたが、ちぃちゃんは、完全に頭の中が空っぽでした。


In Person : ある英語教師のエッセイ